がんセンターの思い出

1983年、任天堂がファミリーコンピュータを発売した年、幼稚園の年長さんで6歳の僕は友だちのキン消しを盗んだ。どうしてもキン消しが欲しくて、でも親はキン消しを買ってくれなくて、友だちの家から勝手にキン消しを持ち出した。6歳にして、立派な泥棒だ。

盗んだキン消しは家に持って帰れなかった。親にどこで手に入れたか問い詰められるから。それにものすごく後ろめたかった。身近に置いて置くと、仲の良い友だちを裏切った罪悪感で押しつぶされそうになるから。どこか離れた所に置いておきたかった。それで、住んでいた社宅の廊下に置いてあったプランターの下に、ビニール袋に入れて隠した。誰も知らない秘密の場所だと思っていた。人の家のプランターなのに。

一度キン消しを盗むと、次はロビンマスクが欲しくなり、その次はステカセキングが欲しくなる。僕は複数の友だちから、自分の欲しいキン消しを次々と盗んで、プランターの下に貯めていった。ただ貯めるだけ。だって遊びに行く時持って行ったらばれるから。たまにプランターの下からひっぱりだして、ちょっと眺めてまた戻す。そうする度に胸の痛みは蓄積されていった。

ある日もうこんな悪いことは止めようと思って、プランターの下からビニール袋に入った全てのキン消しを取り出した。これから渡辺君の家に遊びに行こうと家を出てすぐだった。ビニール袋の中に溜まった十数個の盗んだキン消し。その多くは渡辺君の家から盗んだものだ。

一番仲のいい友だちだったから、思いっきり楽しんで遊べた頃に戻りたかったんだと思う。その頃は彼の顔を見るたびにひどい罪悪感に苛まれていた。でも、彼に返すことはできない。キン消しを盗んだことがばれたら、もう友だちのままではいられないだろう。

悩んだ末、彼の家に向かう途中に道を横切るどぶ川に、ビニール袋ごと捨てた。水かさの少ないどぶ川だったから、十数個のキン消しが入ったビニール袋は重すぎて、なかなか流れなかった。それでも心に重くのしかかっていたものを捨てられた気がして、彼の家に遊びに向かった。

楽しい時間を過ごした後、夕暮れのあぜ道を通って家に帰った。もう二度と友だちから物を盗んだりしないと心に誓って。捨てたビニール袋と一緒に、僕の悪事も水に流されたんだと思っていた。

家に帰ると母親が言った。

「てっちゃん、遊びに行く時にビニール袋持ってたでしょう。あれなぁに?」

全身が凍りついた。母親は自宅のある4階のベランダから外を見ていたのだ。僕が家を出る時は手ぶらだったのに、ビニール袋を持って歩いていたのを。そして帰って来たときはまた手ぶら。あれは何だったの、どうしたのと母親は問い詰めた。僕は何も言い訳を考えられず、もじもじしていた。そんな様子をおかしいと思った母はさらに厳しく問い詰める。

そして僕は全てを打ち明けた。ビニール袋の中に入っていたキン消しのこと、そのキン消し達がどこからやって来て、どこへ行ったかを。

もちろん、母は激しく叱った。泣きながら、息子が泥棒になってしまったことを嘆き、怒った。ビニール袋を探しなさい。母は僕にそう命じ、一緒にどぶ川へ向かった。

遅々として流れなかったビニール袋も遊んでいる間に流されてしまったようで、なかなか見つからない。どぶ川に分け入って日が落ちても探し続け、ようやく角のほうで引っかかっているのを見つけた。ボロボロになったビニール袋と、涙でぐしゃぐしゃになった母と共に家に帰った。

夜、父が帰ってきて、今度は父に更に激しく叱られた。僕は泣きながら、何度も何度も謝った。ごめんなさい、もうしません、許してください、と。

その数日後の週末に、父はお前に見せたいものがあると言い、僕を車に乗せた。父が僕を連れて行ったのは、当時父が現場監督を務めて拡張工事を行っていた九州がんセンター

がんセンターの広い敷地の外れに車を止めると、父は小さな離れの病棟を指差した。がんに侵された子供たちが入院している小児病棟。そして、静かな声で父は言う。

「ここにはな、好きなおもちゃで遊びたくても遊べない子供たちが、たくさんいるんだよ」

帰りに、父は野間アピロスの地下にあるおもちゃ屋に連れていってくれた。そして、キン消しがいっぱい入ったボックスセットを買ってくれた。キン肉マンにテリーマン、ラーメンマンにウォーズマン、主要な超人がみんな揃った豪華なセットだった。

その後、両親と一緒にキン消しを盗んだ友だちの家を1軒ずつ回り、ごめんなさいと謝ってキン消しを1つずつ返した。友だちは僕を許してくれて、また遊んでくれるようになった。

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あれから20年以上、父は酒を飲んで酔っ払うといつも、がんセンターに行った日の話をする。父がその話をするたびに、笑って許してくれた渡辺君や高倉君の笑顔を思い出す。みんな、元気でやってるかな。